霊的な賜物
人間は造り主である神を忘れてしまいました。神無き世界は、命を傷つけ、奪い、破壊します。命を産み出す神の創造の秩序が、それを管理するはずの人間によって破壊されました。しかし神様は、この世界をだめにしてしまった人間の罪を赦すために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。このイエス様を救い主であると告白する主告白は、聖霊の賜物によるです。
この信仰告白は、全体の益のためでなければなりません。苦しい思いをしている人がその苦しみを一人で抱え込むのではなく、みんなで共に苦しむ。苦しみを抱えた人をそのまま放っておかない。主は、苦しみ悩む人の主でもあるのです。「イエスは主である」という信仰告白と、全体の益としての賜物。これこそが霊的な賜物なのです。
聖霊の住まいである体
すべての人がこの世界で命を与えられ、生かされています。神が与え給うたその生命の重さに、優劣があるはずがない。私たちの生命は神様によって与えられ、生かされ、贖われ、聖霊の住まいとされているのです。他の人たちや社会から私たちの価値を決めつけられるのではなく、自分の生命も他の人の生命も、大切なかけがえのない生命、神様からいただいた聖霊の住まいなのです。私たちはこの生命もこの体も、大事に使わなければなりません。生産性や効率だけを目指すのではなく、人と人の間に上下関係をつけて上の者だけが価値があるかのように評価するのではなく、勝ち組に残るためでもなく、すべての人が自分の体で神の栄光を現すために、この生命と体を用いなければならないのです。
時をよく用いなさい
現代社会に生きる私たちは、切り詰められた時間、切り詰められた空間で生かされています。その中でだんだんとストレスが溜まり、他人を傷つけ、他人から傷つけられ、しまいには命さえ奪ってしまう。
忙しい仕事の手を休めて、神様に想いを寄せること。祈りとは神様との会話、交わりの時間。礼拝とは、神様と出会うために仕事の手を止めること。より早く、より多く、より効率的に、より生産性を上げることを求め続けている現代社会において、私たちが失いかけている私たちの時間を、神様によって復活させていただくのです。
時間を有効に使うこと。効率や生産性を上げるためではなく、イエス様が教えてくださったように、私たちの時間を他の人たちに仕えるために献げていきたいと願います。
選ばれた執事
エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの人々は、モーセ一人を頼りにします。モーセのしゅうとであったエトロはそのようすを見て、このやり方はよくないと思い、モーセの代わりに他の隊長たちを立て彼らを裁かせます。十二使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念し、その代わりに食事や生活の世話をする「“霊”と知恵に満ちた評判の良い」執事を選びました。けれども、教会の働きは選ばれた執事だけに負わせるものではありません。バプテスト教会は万人祭司主義として、すべての人が執事の働きを共に担うのです。
執事の働きは、スチュワードシップという言葉で表されます。相手に仕える働き。最後の晩餐の席上でイエス様は弟子たちの足を洗われ、仕える者として模範を示されたのです。
命の言葉
教会はイエスの名のために存在し、イエスの名のために行動しなければなりません。教会は自分たちの身を守るためにあってはならないし、教会員拡大を目的としてはなりません。イエス・キリストの福音を生きる者たちの群れとして、教会はイエスの名のために行動し存在するのです。
十字架刑に処せられたイエス様は、墓の中に閉じ込められます。ところが日曜日の朝、イエス様を閉じ込めていた墓の岩は神の御手によって開かれ、イエス・キリストはよみがえられました。イエス様を墓の中に閉じ込めておくことはできなかったのです。イエス・キリストの御言葉は神から出たものであり、決して滅ぼすことはできません。私たちを生かす命の言葉が開かれるように、私たちも御言葉に真摯に向き合っていましょう。
