月別アーカイブ: 2026年1月
選ばれた執事
エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの人々は、モーセ一人を頼りにします。モーセのしゅうとであったエトロはそのようすを見て、このやり方はよくないと思い、モーセの代わりに他の隊長たちを立て彼らを裁かせます。十二使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念し、その代わりに食事や生活の世話をする「“霊”と知恵に満ちた評判の良い」執事を選びました。けれども、教会の働きは選ばれた執事だけに負わせるものではありません。バプテスト教会は万人祭司主義として、すべての人が執事の働きを共に担うのです。
執事の働きは、スチュワードシップという言葉で表されます。相手に仕える働き。最後の晩餐の席上でイエス様は弟子たちの足を洗われ、仕える者として模範を示されたのです。
命の言葉
教会はイエスの名のために存在し、イエスの名のために行動しなければなりません。教会は自分たちの身を守るためにあってはならないし、教会員拡大を目的としてはなりません。イエス・キリストの福音を生きる者たちの群れとして、教会はイエスの名のために行動し存在するのです。
十字架刑に処せられたイエス様は、墓の中に閉じ込められます。ところが日曜日の朝、イエス様を閉じ込めていた墓の岩は神の御手によって開かれ、イエス・キリストはよみがえられました。イエス様を墓の中に閉じ込めておくことはできなかったのです。イエス・キリストの御言葉は神から出たものであり、決して滅ぼすことはできません。私たちを生かす命の言葉が開かれるように、私たちも御言葉に真摯に向き合っていましょう。
せめてその影だけでも
私たちの信仰は奇跡信仰ではありません。ペトロの影に触れたことで病がいやされたのだとしたら、それはペトロの力ではなく、その背後で働いてくださる神様の力であり、イエス・キリストの力なのです。
ペトロの影に力があるわけではなく、ペトロにも力があるわけではありませんでした。けれども、「せめてその影だけでも」と聖書に記された出来事には、受ける側の必死さが伝わってくるようです。
人々の前に堂々と出てくることもできない病の人たちが、せめてその影だけでも病人のだれかにかかれば、いやされるかもしれない、と考えたのでしょう。そのありようが、ペトロの背後におられるお方、イエス様なら何とかしてくださるに違いない、という信仰につながっていくのです。
神を欺く
ギリシア語で、罪を「ハマルティア」と言います。「的外れ」という意味です。私たちの心や目が、的である神様から外れていくのです。
キリスト教においてもっとも大事なことは、神を神とすること。神様を認め、神様を敬い、私たち人間はその神様から造られた被造物であることを認めること。そこが崩れてくると私たちは、今あるすべてを、まるで自分の力で得たかのように過信してしまいます。それらすべてが神様からいただいていることを忘れてしまうのです。そうやって自分の心をだまし、神様をもだましてしまう。欲に目がくらみ、私たちの目や心が神から離れていくとき、それが的外れとなって私たちを罪に陥らせるのです。
新しい年を迎えた今、神様に心をしっかりと向けながら歩んでいきましょう。
