命の言葉
教会はイエスの名のために存在し、イエスの名のために行動しなければなりません。教会は自分たちの身を守るためにあってはならないし、教会員拡大を目的としてはなりません。イエス・キリストの福音を生きる者たちの群れとして、教会はイエスの名のために行動し存在するのです。
十字架刑に処せられたイエス様は、墓の中に閉じ込められます。ところが日曜日の朝、イエス様を閉じ込めていた墓の岩は神の御手によって開かれ、イエス・キリストはよみがえられました。イエス様を墓の中に閉じ込めておくことはできなかったのです。イエス・キリストの御言葉は神から出たものであり、決して滅ぼすことはできません。私たちを生かす命の言葉が開かれるように、私たちも御言葉に真摯に向き合っていましょう。
せめてその影だけでも
私たちの信仰は奇跡信仰ではありません。ペトロの影に触れたことで病がいやされたのだとしたら、それはペトロの力ではなく、その背後で働いてくださる神様の力であり、イエス・キリストの力なのです。
ペトロの影に力があるわけではなく、ペトロにも力があるわけではありませんでした。けれども、「せめてその影だけでも」と聖書に記された出来事には、受ける側の必死さが伝わってくるようです。
人々の前に堂々と出てくることもできない病の人たちが、せめてその影だけでも病人のだれかにかかれば、いやされるかもしれない、と考えたのでしょう。そのありようが、ペトロの背後におられるお方、イエス様なら何とかしてくださるに違いない、という信仰につながっていくのです。
神を欺く
ギリシア語で、罪を「ハマルティア」と言います。「的外れ」という意味です。私たちの心や目が、的である神様から外れていくのです。
キリスト教においてもっとも大事なことは、神を神とすること。神様を認め、神様を敬い、私たち人間はその神様から造られた被造物であることを認めること。そこが崩れてくると私たちは、今あるすべてを、まるで自分の力で得たかのように過信してしまいます。それらすべてが神様からいただいていることを忘れてしまうのです。そうやって自分の心をだまし、神様をもだましてしまう。欲に目がくらみ、私たちの目や心が神から離れていくとき、それが的外れとなって私たちを罪に陥らせるのです。
新しい年を迎えた今、神様に心をしっかりと向けながら歩んでいきましょう。
神をほめたたえる
人生の晩年を迎えていたシメオンとアンナは、生まれたばかりの幼子イエスを見て神をほめたたえました。貧しい家に生まれた幼子、イエス・キリストをほめたたえる老人たち。
弱い者たちは差別され、切り捨てられていく、そんな世界に救い主が来られた。クリスマスは、この世で弱さを抱えている人たち、弱さを認めざるを得ない人たち、世の中から差別され、切り捨てられようとしている人たちのための救いの出来事なのです。自分の弱さを知っている者、自分の弱さを認めている者たちの救いの出来事。
シメオンとアンナは人生の晩年に、この世に来られたまことの光を見出し、それを人々に宣べ伝えました。彼らは、目に見えるものではなく、その先にある光、肉の目では決して見ることのできない光を見て、神をほめたたえたのです。
主の喜び給う人
私たちが探しに行かない場所、誰も考えなかった場所に、生まれたばかりのイエス様は寝かされました。羊飼いが訪ねていくことのできた場所。その飼い葉桶が羊飼いたちに与えられたしるしでした。
羊飼いたちは、貧しくて汚い仕事をしていました。その上、安息日の礼拝に出ることもできませんでしたから、イスラエルでは罪人扱いされていました。そんな彼らでしたが、神様は「主の喜び給う人」、主なる神様が喜んでくださる人と呼んでくださったのです。羊飼いたちは天使たちの言葉を信じ、飼い葉桶に寝かされた救い主を見つけ出すことができました。貧しくても、罪人扱いされていても、神様を信じ、その御言葉に従って歩みだす者だけが、飼い葉桶に寝かされた救い主に遭うことができるのです。
