妥協と合意
アンティオキア教会はエルサレム教会の4つの条件を受け入れました。律法を重んじていたユダヤ人キリスト者にとって、たった4つの戒めだけというのはたいへん大きな譲歩でした。また、信仰のみ、恵みのみによって救われると信じていた異邦人キリスト者たちにとって、4つも戒めを与えられたということは大きな負担でした。しかし、お互いが譲り合うことによって、相手を切り捨てるのではなく、同じイエス・キリストを信じる者として歩んでいこうではないか。福音を宣べ伝える相手はそれぞれ違うかもしれないけれども、ユダヤ人も異邦人もすべての人が救いに預かることを願いながら、それぞれがそれぞれのところで使命を受けて働いていく。その姿が、お互いの働きを励まし、勇気を与えてくれるのです。
エルサレム会議
ペトロは自分の体験を通して、異邦人も主イエスの恵みによって救われると語ります。ヤコブは、神に立ち帰る異邦人を悩ませてはならないこと、けれども律法を守ってきたユダヤ人キリスト者に配慮して若干の条件を付けることにしました。ユダヤ人であるか、異邦人であるかという違いによって互いに反目し合い、分裂し合っても何の利益にもなりません。ユダヤ人も異邦人も互いに協力し合い、イエス・キリストを宣べ伝えていくこと。自分の主張だけを強く推し通すのではなく、相手の言い分だけを一方的に受け入れるのでもなく、両者がしっかりと協議して譲れるところは譲り、譲れないところはきちんと主張して、相手側の気持ちも理解しながら歩み寄っていったのです。
天と地と海と世界の創造者
パウロを神にしようとした人々に対して、パウロはこう語りました。我々もあなたがたと同じ人間に過ぎない。人間を神にしてはならないし、人が神に成り代わってはならない。天と地と海とその中にあるすべてのものを造られた方だけが、本当の造り主、本当の神なのだ。
足の不自由な男は、いやされるのにふさわしい信仰がありました。たとえ足が不自由でも、何もできなくても、そんな私でも天と地と海とその中にあるすべてのものを造られたお方によって、造られた素晴らしい存在なのだ。それが、彼がいやされるのにふさわしい信仰でした。どのような存在であっても、まわりの人たちから認められなくても、神様によって造られたということが本当に大事なことであり、尊いことなのです。
主を頼みとして勇敢に
イコニオンのユダヤ教の会堂に入ってイエス・キリストの福音を宣べ伝えたパウロとバルナバでしたが、信じようとしないユダヤ人が異邦人を扇動し、パウロとバルナバに対して悪意を抱かせます。それでも二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語ったのです。
私たちもパウロのように、主を頼みとして勇敢にイエス・キリストの福音を語っていきたいと願います。なぜなら、私たち自身がこの福音にあずかって豊かな生活を送ることができているからです。教会は強制されてくるのではありません。「教会に行きたい、礼拝したい」という、ワクワクした思いを伝えたい。自分のまわりの人たちと一緒に、喜びの礼拝を献げたい。そんな思いを、主を頼みとして勇敢に、伝えていけたらと思います。
神の計画
旧約聖書の預言には、救い主・メシアは私たちの代わりに苦難を受けてくださるメシアの姿が描かれています。
人間の無知のゆえにイエス・キリストを十字架にかけた。そのような人間の愚かしささえ、神は御自身の救いの御計画の中に入れてくださった。人が誰も思いつくことのできない神の御計画。従って、この神の御計画によって救いに預かるためには、十字架の贖いと復活という出来事において私たちに救いをもたらしてくださった神の御計画であるイエス・キリストの十字架と復活を信じる以外にはないのだ。パウロはそう語るのです。
人の思いをはるかに超えたイエス・キリストの十字架と復活による救いの御計画。これが、神様が立てられた人類の救済計画でした。
