宣教の準備
まことの神様から離れてしまっていたパウロは、キリストとの出会いを通して神様の方へと方向転換をします。パウロは、迫害者から迫害される者へ、力ある者から力のない者へと変えられていったのです。パウロの生き方が変えられていったこの出来事こそが、パウロを知っている人たちに対する大きな証しとなるのです。
キリストに出会ったパウロは、自分は光ではなく、光を入れる土の器であることを教えられます。土の器は、その中で光輝くイエス・キリストを人々に示すことによって、その価値が生まれます。パウロはキリストと出会い、キリストを迫害する者からキリストの宣教者へと変えられていきました。パウロは宣教者となるために、イエス・キリストと出会い、変えられたのです。
パウロの回心
イエス・キリストに出会う前のサウロは、力強く、自信に満ち溢れていました。自分の力で神様の役に立ちたかったのです。ところが、イエス・キリストと出会ってサウロは力を失います。イエス・キリストとの出会いは、私たちがいかに無力であるかということを教えます。力の無い本当の自分をさらけ出す。こうして自分の力に頼るのではなく、ただ神の力によって生かされていることを実感するのです。
無力になったサウロは、自分は光ではなく、土の器であることに気付かされます。自分自身で輝くのではなく、土の器はただその中に輝く光を持っているからこそ、価値があるのだ。無力でありながら、神にすべてを委ね、神の力によって生きることのすばらしさをサウロは実感するのです。
主と出会う
イエス・キリストと出会うこと。それは、この世での生活が楽になることではありません。いやむしろ、パウロのようにイエス様に従ったがゆえに、かえって生活が苦しくなることさえあります。この世の地位や名誉、この世で自分が得てきたすべてのものを失ってしまうかもしれません。けれどもパウロは、それらのものをただ失ったのではありませんでした。それらのものに頼って生きてきた自分の生き方が変わった。この世の地位や名誉や力により頼む生き方から、ただ一人の主であるイエス・キリストだけにより頼む生き方に変えられたのです。そのような生き方は、この世の地位や名誉や力では決して得ることのできない心の平安、神様の平和に満たされた生き方なのです。
異邦人のバプテスマ
エチオピアの高官がバプテスマを受けたのは、主の天使と主の霊の働きでした。この出来事の導き手としてフィリポは選ばれました。神様は御自身の福音宣教の働きのために、私たち人間を用いてくださいます。人間の力など必要とされないのに、あえて私たちを用いてくださるのです。もしフィリポが勇気を出して宦官に声をかけなかったなら、この出来事は起こりませんでした。またフィリポが、宦官が読んでいた聖書の箇所の解き明かしができなかったなら、この出来事はなかったことでしょう。声をかける勇気と、聖書を解き明かすための力。フィリポが普段から聖書を学び、勇気をもってエチオピアの宦官に声をかけたからこそ、ユダヤ人ではない異邦人のバプテスマという出来事が起こったのです。
聖霊の働き
サマリアでのフィリポの働きを聞いて、エルサレム教会はペトロとヨハネをサマリアに派遣します。遣わされたペトロとヨハネの働きを見て、魔術師シモンは金でその力を授けてほしいと願い出ます。するとペトロは、神の賜物は金では手に入れられないのだと答えます。
魔術を施す人は、自分の目的のために術や呪文を用いて、その力を行使します。それに対して神の賜物は、神の力の前にひれ伏すのです。その力を自分の支配下に置くのではなく、神様の偉大な力の前にひれ伏して、その神様の力の担い手として私たちが遣わされる。私たちに力があるわけではありません。ですから、神の賜物を自分の思い通りに使おうとする者や、神の力を自分の支配下に置こうとする者には、神の賜物は与えられないのです。
