聖霊に逆らう
生活基盤や社会的立場の弱い人たちが守られるはずの神殿が、彼らを食い物にする場となっている。聖霊に逆らう罪とは、神と悪魔の働きを逆転させ、自分たちこそがまことの神の僕であるとすること。こうして、イエス・キリストを神に逆らう者として断罪し、神に逆らっている自分たちこそ真の神に付く者なのだと自己正当化すること。
世界各地で起こっている戦争の首謀者たちは、自分たちが正しく相手がまちがっていると、互いに相手を非難し合います。自分の非を認めず、自分を神の側に置き、相手を一方的に悪魔と決めつけ断罪する。この聖霊に逆らう罪を犯した者たちの手によってイエス・キリストは十字架につけられ、最高法院で大祭司や律法学者たちを断罪したステファノもまた、石打ちの刑で殺されていくのです。
宝の民
神様は、神様から見捨てられたと思われていた人々を、神の民としてくださいました。ユダヤ教やローマ帝国から弾圧を受けていた初代教会の人々こそが、まことの神の民なのだ。
神様は、私たち一人一人を愛してくださったゆえに、私たちを罪の奴隷から救い出してくださいました。私たちが他の人たちよりも優れていたからではなく、むしろ貧弱だった私たちを神様が選んでくださり、罪の奴隷から救い出すためにイエス・キリストをこの世にお送りくださり、イエス・キリストの十字架を私たちの罪の贖いとしてくださいました。私たちは神様によって選ばれた神の民、宝の民なのです。私たちも神様の宝の民としてふさわしく歩むことができるよう、神様から少しずつ変えられていきたいと願います。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
モーセは、エジプトの王女に拾われ、王室で育ち、エジプトの教育を受けました。そんなモーセをイスラエルの人々は受け入れませんでした。そのモーセを、神様は御自分の働きのために選んでくださいました。自分は何者なのかと、モーセは神様に問います。神様は「わたしは必ずあなたと共にいる」と答えます。あなたが何者でも、わたしは必ずあなたと共にいる。
神様はアブラハムに現れ、祝福の基とし、その息子イサクを約束の継承者とし、その息子ヤコブにイスラエルという名前を与えられました。私たちの神様は、単なる机上の神や想像上の神ではなく、実在する歴史の中で、御自分の民を選び、祝福を与えてくださいました。その同じ神様が、私たちの神様なのです。
知恵と霊に満ちて
最高法院に引き出されたステファノの顔は、天使の顔のように輝いていました。ステファノは、イスラエルでもっとも権威ある場所で、彼の味方をする人が誰一人としていない状況で、キリストの福音を語る機会が与えられたことで、大きな喜びに満たされていたのです。
最高法院に引き出されてイエス様のために証言する人たちは、証言する内容を自分で準備しなくても、聖霊によって語る言葉が整えられるのです。けれども、ステファノがまったく何の準備もしなかったのかというと、そうではありませんでした。彼は毎日御言葉を読み、自分の中にたくさん御言葉を蓄えました。蓄えられた御言葉は、聖霊の導きによって必要な御言葉が自由に引き出されてくるのです。そして、祈ることによって整えられていったのです。
あふるる恵み
神様は、あふるる恵みを私たちにくださろうと招いておられます。十分の一の献げ物をもって立ち帰りなさい、と主は言われます。
あふるる恵みとは、私たちの食べ物や仕事、生活が守られ、この世のすべての命と体が守られ、そうやって世界や自然が守られていくこと。これらすべてが神様から無条件に与えられたものであると理解することによって、私たちは神御自身に立ち帰ることができるのです。
あふるる恵みとは、世界中の国々から神の民が幸せな者と呼ばれること。神様に属する人々が喜びの国となること。それは福音が世界中に宣べ伝えられていくことです。世界に対する神の宣教の御業に招かれていく。献げ物によって、私たちは具体的に教会の福音宣教の業に共にあずかることができます。神の宣教の誇りある業に参与することができるのです。
