新約聖書
聖霊の住まいである体
すべての人がこの世界で命を与えられ、生かされています。神が与え給うたその生命の重さに、優劣があるはずがない。私たちの生命は神様によって与えられ、生かされ、贖われ、聖霊の住まいとされているのです。他の人たちや社会から私たちの価値を決めつけられるのではなく、自分の生命も他の人の生命も、大切なかけがえのない生命、神様からいただいた聖霊の住まいなのです。私たちはこの生命もこの体も、大事に使わなければなりません。生産性や効率だけを目指すのではなく、人と人の間に上下関係をつけて上の者だけが価値があるかのように評価するのではなく、勝ち組に残るためでもなく、すべての人が自分の体で神の栄光を現すために、この生命と体を用いなければならないのです。
時をよく用いなさい
現代社会に生きる私たちは、切り詰められた時間、切り詰められた空間で生かされています。その中でだんだんとストレスが溜まり、他人を傷つけ、他人から傷つけられ、しまいには命さえ奪ってしまう。
忙しい仕事の手を休めて、神様に想いを寄せること。祈りとは神様との会話、交わりの時間。礼拝とは、神様と出会うために仕事の手を止めること。より早く、より多く、より効率的に、より生産性を上げることを求め続けている現代社会において、私たちが失いかけている私たちの時間を、神様によって復活させていただくのです。
時間を有効に使うこと。効率や生産性を上げるためではなく、イエス様が教えてくださったように、私たちの時間を他の人たちに仕えるために献げていきたいと願います。
選ばれた執事
エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの人々は、モーセ一人を頼りにします。モーセのしゅうとであったエトロはそのようすを見て、このやり方はよくないと思い、モーセの代わりに他の隊長たちを立て彼らを裁かせます。十二使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念し、その代わりに食事や生活の世話をする「“霊”と知恵に満ちた評判の良い」執事を選びました。けれども、教会の働きは選ばれた執事だけに負わせるものではありません。バプテスト教会は万人祭司主義として、すべての人が執事の働きを共に担うのです。
執事の働きは、スチュワードシップという言葉で表されます。相手に仕える働き。最後の晩餐の席上でイエス様は弟子たちの足を洗われ、仕える者として模範を示されたのです。
せめてその影だけでも
私たちの信仰は奇跡信仰ではありません。ペトロの影に触れたことで病がいやされたのだとしたら、それはペトロの力ではなく、その背後で働いてくださる神様の力であり、イエス・キリストの力なのです。
ペトロの影に力があるわけではなく、ペトロにも力があるわけではありませんでした。けれども、「せめてその影だけでも」と聖書に記された出来事には、受ける側の必死さが伝わってくるようです。
人々の前に堂々と出てくることもできない病の人たちが、せめてその影だけでも病人のだれかにかかれば、いやされるかもしれない、と考えたのでしょう。そのありようが、ペトロの背後におられるお方、イエス様なら何とかしてくださるに違いない、という信仰につながっていくのです。
神を欺く
ギリシア語で、罪を「ハマルティア」と言います。「的外れ」という意味です。私たちの心や目が、的である神様から外れていくのです。
キリスト教においてもっとも大事なことは、神を神とすること。神様を認め、神様を敬い、私たち人間はその神様から造られた被造物であることを認めること。そこが崩れてくると私たちは、今あるすべてを、まるで自分の力で得たかのように過信してしまいます。それらすべてが神様からいただいていることを忘れてしまうのです。そうやって自分の心をだまし、神様をもだましてしまう。欲に目がくらみ、私たちの目や心が神から離れていくとき、それが的外れとなって私たちを罪に陥らせるのです。
新しい年を迎えた今、神様に心をしっかりと向けながら歩んでいきましょう。
